「なつかしい時間」(長田 弘著、岩波新書、2013年)

書籍+移住への視点

詩人 長田弘がNHKテレビ「視点・論点」で語った17年間の言葉の集成

この本は、全部で51のお題で構成されています。
それは1995年から2012年までの間に、長田弘氏がNHKテレビ「視点・論点」で一人の詩人の目を通して、言葉や風景、本などについて語ったものです。
お題ごとに、4~5ページほどの分かりやすく平易な文章が書かれていますが、そこには、スマホの画面を慌ただしくスクロールしながら読むような読み方を退けさせる丹精に選ばれた言葉があります。
昨夏、会社を辞めてから、自分が今後、営みたい生業を考える過程で、この本のなかの複数のお題で取り上げられている「風景」についての文章は、私が長崎へ移住することや、長崎で不動産業を開業したいという思いに至ることを促してくれたと感じます。

例えば、「大切な風景」というお題に次のような文章があります。

いまは、何事もクローズアップで見て、クローズアップで考えるということが、あまりにも多いということに気づきます。クローズアップは部分を拡大して、全体を斥けます。見えないものが見えるようになった代わりに、たぶんそのぶんわたしたちは、見えているものをちゃんと見なくなった。
風景のなかに在る自分というところから視野を確かにしてゆくことが、いまは切実に求められなければならないのだと思います。

p9 「大切な風景」(1996年1月9日)

風景を見ることで、人間の大きさが見えてくるということが、「遠くを見る眼」というお題で次のように記されています。
ここでの指摘が、すでに1999年になされたものであることに、打たれます。

遠くを見る眼というのは、いま、ここに在ることの、存在の感覚を鋭くします。眼を上げて、遠くを見る。わたしたちはしばしば、そうやって遠くを見ることで、自分の場所、自分の位置を確かにしようとしてきました。そうして、眼を上げて、遠くを見て、思い知るのは、人間の本当の大きさです。
-略-
今日の技術の時代には、ますます近くを精密に見る眼が重んじられても、遠くを見る視力はかえって衰えてきているのではないかと疑われます。
-略-
二十一世紀にむかって回復したい、ひろびろと遠くを見わたす眼差しの大切さが、今こそたずねられなければならないと、わたしはつよくそう思っています。

p62 「遠くを見る眼」(1999年12月3日)

では、どういう風景が望ましいのでしょうか?
それについては、「風景という価値観」というお題に、次のような記載があります。

こうした、よろこばしい風景というのは、世に知られる名勝、名所のような、うつくしい風景ではありません。そうではなく、その風景のなかにじぶんがいると深々と感じられるような、じぶんというものがありありと感受されるような、そういう風景です。
-略-
わたしたちは今日、じぶんが風景のなかにいて、風景のなかでじぶんの感受性は育ってゆくということを、ひどく実感しにくいところで生きているのではないでしょうか。人の価値観を育むもの、支えるもの、確かにするものとしての風景のなかに身を置くということ、風景のひろがりのなかでじぶんの小ささを思い知るということが、いつか見失われてしまっているために、人間がひどく尊大になってしまっている。そのことの危うさを、いつも考えます。

p133 「風景という価値観」(2004年9月9日)

そのうえで、「叙景の詩」というお題で、人はいま、自分の風景を失っているのではないか、と鋭く指摘しています。

どんなときも、人は風景のなかで生きています。風景のない人生というものはありません。風景を生きること、自分がそのなかに在る風景を生きることが、すなわち人生というものなのだといっていいのかもしれません。
-略-
叙景の詩にあっては、人はこの世界の主人公ではありません。つねに風景よりずっと小さな存在、つつましさを知る存在です。いまはどうでしょうか。人はいま風景の子どもとしての自分を見失って、自分の風景そのものを失った、風景のない存在のようになってしまってはいないでしょうか。
風景のない時代。人が叙景の詩を自分のうちに持っていない時代。それは、いまの時代のように、人がけっして寛ぐことのできないでいる時代のことです。だから、人の在り方を自由にする新しい叙景の詩を、自分のうちにつねに育ててゆくことができなくてはいけない。それがはじまりです。

p207-p212 「叙景の詩」(2010年4月12日)

ここから見える移住への視点

この本には、詩人 長田弘氏が記した丁寧な言葉が集成されています。
そのため、読む人により、また、読むときにより、様々な大切なことを受け取ることができる本だと思います。
昨夏、会社を辞め、今後の自分の生き方や生業について考える私には、これらの「風景」に関する文章が次の二つの理由から響きます。
一つ目は、会社を辞めてから、それまでコロナ禍や仕事の多忙さから滞っていた合気道の稽古へ頻繁に通うようになり、9年前から始めた合気道の道場が、まさに私にとっての「よろこばしい風景」つまり、「その風景のなかにじぶんがいると深々と感じられるような、じぶんというものがありありと感受されるような、そういう風景」のある場所であることを理解できたからです。
二つ目は、私がこれまで不動産の企画や開発、管理といった仕事に携わってきたことに関連します。
それは、自分が培ってきた経験を、これまでのように人口が集中している都会地でではなく、すでに人口減少と高齢者数の増加が進んでいる地方都市で生かすことの意味を、上に記した次の言葉が指し示してくれているように感じられるからなのだと思います。
「どんなときも、人は風景のなかで生きています。風景のない人生というものはありません。風景を生きること、自分がそのなかに在る風景を生きることが、すなわち人生というものなのだといっていいのかもしれません。」
つまり、自分にとっての大事な風景を長崎という移住先で見出すこと、そして、その経過を通じて得るものを、長崎への移住を考えている他の方と共有し、提供することに自分がこれまでに培ってきた不動産業の経験を生かせるのではないかと、感じるからなのです。

プロフィール
藹然として移住に挑戦中

これまでの経験+新しい学びで地方都市 長崎への移住と不動産業の開業を目指しています。私が長崎での住まいや仕事を検討するために確認したデータや考え方、実際に移住する中で得た知見や経験を掲載します。同じ長崎や地方都市への移住を考えている方のお役に立ったり、情報交換ができると嬉しいです。

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