2003年に刊行された、経済学者 岩井克人氏による理論書
この本の前書きで著者は、2003年に平凡社から出版された底本を2009年に平凡社ライブラリー版として出版するにあたり、あえて底本の内容を改訂しなかった理由として「本書は基本的には『理論書』であるからです。」(p20)と記しています。
その上で、「『理論書』とは何か?」について、こう記しています。
それは、時々刻々と変化する現実の経済現象からも、ある時は日本型が「ナンバー・ワン」、別の時はアメリカ型が「グローバル標準」というように十年単位で振り子のごとく揺れ動くメディアや学界の風潮からも一歩離れた視点から、それらの現象や風潮の背後にある基本原理を取り出し、その内容をできる限り統一的に提示しようとした本であるという意味です。
p21 「平凡社ライブラリー版へのまえがき」
私は2003年にこの本が出版された頃、社会人になって5~6年が経っていました。
当時、会社で働きながら「会社って何なんだろう?」という思いを抱いて、この本を読んだように記憶しています。
その後、サブ・プライム・ローン問題に端を発したリーマンショックの頃に、「いま何が起きているのだろう?」という自分の中の問いに対する解を、TVや新聞で報じられている内容に比べてもう少し長い時間軸で理解したくて、この平凡社ライブラリー版を手に取り、読みました。
そして、社会人人生が通算26年となった昨夏、会社を辞めてからこの本を再読したとき、自分の中に、この本に記されている幾つかの文章が自分の中に宿り続けたまま、これまでの時間を過ごしてきたことに気がつきました。
その自分の中に宿っていた、いくつかの文章を、ここに紹介したいと思います。
まず著者は、資本主義についてや、これまでの資本主義の支配的な形態の変化を次のように整理しています。
資本主義とは、利潤を永続的に追求していく経済活動のことです。
p234-p238 「第七章 資本主義とは何か」
-略-
差異性から利潤を生み出すー太古に商業資本主義が発見したこの原理は、商業資本主義にのみ通用する原理であるのではありません。それは、じつは、すべての資本主義に通用する資本主義の一般原理なのです。
-略-
産業革命を境にして、資本主義の支配的な形態は、商業資本主義から産業資本主義へと転換することになりました。産業活動を通して利潤を生み出す資本主義です。
-略-
労働生産性と実質賃金率とのあいだの差異性こそ、産業資本主義の利潤の源泉なのです。
-略-
産業資本主義の拡大は、いつかは産業予備軍を使い切ってしまいます。そして、先進資本主義国のなかでは、二十世紀の後半において、とうとう農村の過剰人口が枯渇してしまったのです。
-略-
利潤は差異性からしか生まれません。もはや産業資本主義が依拠していた労働生産性と実質賃金率との間の構造的な差異性には依拠できなくなったのです。
-略-
すなわち、資本主義が資本主義でありつづけるためには、今度は、意識的に差異性を創り出さなければならなくなったのです。それが、いまわたしたちの目の前で進展している「ポスト産業資本主義(POST-INDUSTRIAL CAPITALISM)」という事態にほかなりません。
以上を踏まえて、著者は日本の場合について、次のように整理しています。
ところで、日本の場合、産業資本主義の衰退は、いわゆる高度成長期の終わりと時期を同じくしています。
p247-p249 「第七章 資本主義とは何か」
1950年代からはじまった日本の高度成長を支えてきたのは、農村から都会への大量の人口移動でした。
-略-
ところが1960年代の後半になると、農村から都会への人口移動のスピードが急速に減退するようになりました。
-略-
日本の高度成長期が終わったのは、1960年代の後半です。それにすこし遅れた1973年にいわゆる第一次オイルショックがあったこともあり、高度成長の終焉はオイルショックによるものだと考えるひとびとも多かったのですが、最近では、高度成長に終止符をうったのは、農村の産業予備軍の枯渇であったという見方が、少なくとも経済学の学会のなかでは確立しつつります。
この、高度成長は、農村から都会への人口移動によるものだったという指摘は、私にとって目からうろこでした。
つまり、高度成長という特別な時期は、農村から都会への人口移動という特別な事象によるものだったということですから、いずれは、それまでとは逆に、都会から地方都市への人口移動が普通になっていくのではないか、と私には感じられたのでした。
この本の名前は「会社はこれからどうなるのか」ですから、会社とは本来どういったもので、これからはこういったことを考えて対応していった方がよいということが丁寧に書かれていて、組織人として学ぶところが多くあります。
ただ、すでに会社を辞めて、組織人ではなくなった今の私にとっては、次に紹介する「第十章 会社で働くということ」に書かれていることが響いてきます。
例えば、次のような文章です。
ポスト産業資本主義の時代とは、産業資本主義の時代にくらべて、個人が起業を容易に起こすことができるようになった時代です。
p351 「第十章 会社で働くということ」
玄田氏の研究が示唆するように、会社で働きながら、関連する能力や知識を身につけ、若干の資金を蓄え、さまざまな人的ネットワークを作り上げておくほうが、成功の確率が高くなるはずです。何が本当の差異性であるかを認識するためには、何が差異性でないかを知る必要があるのです。
p358 「第十章 会社で働くということ」
これからの会社においては、まさに自分の都合で、しかもそれまで会社で働きながら得た知識や能力を生かすために、会社を離れていく授業員が増えていくことになるはずです。
p360 「第十章 会社で働くということ」
ポスト産業資本主義の時代とは、差異性の時代です。
p361 「第十章 会社で働くということ」
ここで私はあらためて、この本が2003年に書かれたことを思い出します。
この本を最初に読んだ時から約20年の時が経ち、その間に、この本が書かれたときには想定されていなかった自然災害や感染症、戦争が次々と起きましたが、それにもかかわらず、上で述べられていることは確かに生じているように感じられ、著者の慧眼に敬意を抱かずにはおられないのでした。
ここから見える移住への視点
著者はこの本の中で繰り返し、ポスト産業資本主義においては、意識的に差異性を創り出さなければ、利潤を生み出すことは出来ないと説いています。
私は、この差異性を生み出す基盤に、地方都市の歴史や地形、風土、気候、すなわち地方都市の風景を据えることができるのではないかと、考えています。
具体的な術は今も思案中ですが、地方都市の独自の風景に価値を見出した不動産業を営むことに、これまで自分が携わってきた不動産の企画や開発、管理の経験が生かせるのではないかと考えています。
また、この本の中で著者は「ヒトとは、自分以外の何人にも支配されない自立した存在」であり、「ヒトに知識や能力を自主的に発揮してもらうこと」が肝要だと記しています。
長らくサラリーマンとして働いてきた身としては、この言葉が自分が不動産業を開業したいという思いの礎になっているように感じています。
最後に、第三章「会社の仕組み」において、著者は「信任」という言葉に触れています。
信任とは、英語のFIDUCIARYに当たる日本語です。
p111 「第三章 会社の仕組み」
-略-
重要なことは、信任とは契約とは異質の概念であるということです。
信任という言葉は、イギリスやアメリカではよく使われますが、日本では日常的にほとんど耳にしない言葉です。だが、ますます専門化が進んでいる現代資本主義のなかで、信任の関係は契約関係と並んで、市民社会を構成する人間関係のもっとも大きな柱となりつつあるのです。
p113 「第三章 会社の仕組み」
私は、すでに人口減少や高齢化が進んでいる地方都市においては特に、ここで言われている「信任」に基づいた生業を営むことが求められており、これが自分が営みたい事業の骨格となる考え方のように感じています。
コメント